京都・大阪・堺の三方からの高野街道が、麓の学文路(かむろ)で合流した京大坂道(きょうおおさかみち)。高野七口の中でも最も歩きやすいルートとして、多くの人々を迎え入れてきました。
朱塗りの極楽橋を渡ると、辺りは清らかな空気に。急峻ないろは坂(旧不動坂)から女人堂までの山道は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されています。
学文路駅から集落や宿場跡をたどりながら高野山を目指す約8.8km。
大半が舗装道路で歩きやすいですが、急な登り坂の作水坂や、終盤のいろは坂といった難所もあります。
約8.8km・2時間58分
江戸時代には多くの参詣客で賑わった京大坂道。沿道には高野山の歴史を伝える古刹や名所が多く残っています。
終点の不動坂女人堂は、かつて高野山が女人禁制だった頃の名残として唯一現存している女人堂です。
高野聖が語り歩いた平安末期の悲話・石堂丸に関する遺品や願いを叶える「夜光の玉」、人魚のミイラなどが残されています。
河根にあるこの神社の祭神は丹生都比売神社と狩場明神です。日輪寺の境内には「山車小屋」があり、祭り当日は一年で一番賑やかになります。
明治4(1871)年この場所手前の黒岩で仇討がありました。その2年後に「復讐禁止令」が出されたことから「日本最後の仇討ち」の歴史が残る場所の一つとなりました。
高野街道沿いにある木造の小学校。現在は廃校となりました。
不動坂にさしかかる橋で、昔は橋の近くに茶店が建っていました。大正時代の初めに車道として整備されました。
大正4(1915)年の高野山開創千百年記念大法会を機に不動坂道が整備されたため、いろは坂旧不動坂は通行する人がいなくなり、それに伴い清不動堂に参拝する人がいなくなったため、大正9(1920)年に清不動堂は移築されました。
高野山は、明治5(1872)年まで女人禁制であったため、女性の参籠所または弘法大師を遙拝(ようはい)する場所、宿泊所としてお堂が建てられました。高野七口のうち現存するのはここだけです。
京大坂道の起点・学文路駅までは南海なんば駅から南海高野線で約62分。